エリザベス女王とフィリップ殿下の家庭生活~離婚した子供達の事情

エリザベス女王が9月8日に崩御なさいました。

70年にわたる長い治世は激動の時代でもあり、英王室は幾度となく危機にみまわれました。

でも何が起ころうと常に変わらず、泰然自若とした女王の姿は、英国のシンボルであり、国民に安心感と誇りを与える存在でした。

何か月か前まではお二人共お元気だったのに・・・

安部元首相が凶弾に倒れた時、女王は心のこもったお悔みの言葉と弔意を表してくださいました。

トラス首相は8日夜、「わが国は女王の治世で成長と繁栄を遂げた。英国が偉大な国であるのは、女王のおかげだ」と功績を称えています。

 

 

エリザベス女王の子供時代

エリザベス女王は1926年4月21日、ジョージ5世の次男、ヨーク公アルバート王子の長女として、ロンドンのバークリースクエアの邸宅で生まれました。

母親のエリザベス・ボーズ・ライアンはスコットランドの大貴族の4女です。

父アルバート王子は次男であったため、子供時代のエリザベス王女は妹のマーガレット王女と同じ様に育てられました。

エリザベス王女はジョージ5世のお気に入りの孫で、王女も国王に懐いていたそうです。

ジョージ5世はヴィクトリア女王の孫にあたります。

国王が外出するときは、よく幼いエリザベス王女が彼の膝にちょこんと座っていました。

ジョージ5世がプレゼントしたポニーにまたがるエリザベス王女の姿は、マダム・タッソーの蝋人形館に飾られ人気を集めていました。

祖父母である国王夫妻はエリザベス王女の躾に熱心で、幼い頃から王族としての立ち居振舞いや精神を教えていたそうです。

 

当時はジョージ5世の長男、エドワードが皇太子であったため、エリザベス王女の立場は、それほど重いものではなく、いずれは高位の貴族か王族の一人と結婚して、プリンセスとしての人生を送ると思われていました。

「沢山の馬や動物に囲まれて、田舎で暮らしたい」というのが、子供時代の王女の夢でした。

 

松平信子さんのエピソード

秩父宮妃勢津子様の母、松平信子さんは戦前、外交官の夫と共にイギリスで暮らしており、王族と親しい交流がありました。

松平夫人が宮殿を訪れた際、偶然廊下で出会った、5歳くらいのエリザベス王女が立ち止まって、丁寧なご挨拶をなさり「〇〇さん(松平家の長男の名前)はどうしていますか?また遊びに来るようお伝えくださいませ」と言ったそうです。

幼い頃のエリザベス王女。

 

松平夫人からその話を聞いた勢津子様が、後年「大変すばらしい躾を遊ばされていると思った」とおしゃっています。

ダイアナ妃が来日した時、ご案内した勢津子様。

ダイアナ妃の向かって左が勢津子様。右横の青いスーツが三笠宮妃信子様。

 


王冠を賭けた恋

エリザベス女王の父、アルバート王子は兄のエドワード8世より先に結婚しました。

エドワード8世の恋の相手は、人妻ばかりで結婚には至らず、父親のジョージ5世を嘆かせました。

さぞかしモテたであろうエドワード8世の若い頃。

 

その愛人達の中で、ウォリス・シンプソンは一番、厚かましく押しの強い性格でした。

野心家で「自分流」を貫くあたりは、メーガン妃にも似ています。

ウォリス・シンプソン夫人はアメリカ南部の出身で、最初の夫である海軍士官との離婚手続きが終わる前に、資産家の開運業者シンプソンと出会っています。

エドワード8世と出会って、シンプソンとも離婚したわけですが。

たくましいウォリス・シンプソン夫人

 

2回も離婚歴のあるアメリカ人ということで、シンプソン夫人との結婚は大反対にあいました。

王の居城で女主人然として振る舞う態度も、王の招待客や友人達から嫌われました。

英国国教会だけでなく国民からの反対も強く、マスコミにも盛大に叩かれています。

 

国王の味方

そんな二人に味方をして、「私は国王を支持する。シンプソン夫人についてドイツでは全面的に報道禁止措置をとる」と言ってくれたのは、ヒトラーでした。

退位後ウィンザー公となったエドワード8世とシンプソン夫人は、第二次大戦中もナチスとの交流を続けました。

ドイツが勝利した暁には、自分達を英国の国王と王妃にする、という密約もなされていました。

叔父とナチスの関係は戦後、エリザベス女王を煩わせることになりました。

 

国王の退位

シンプソン夫人との結婚は、国内だけでなく海外の植民地からも強い反対を受け、国王はボールドウィン首相に退位を申しでました。

退位宣言の直後、王室の命を受けた弁護士が、国王からシンプソン夫人に贈られたアレキサンドラ皇太后の宝石類を返却させるため、シンプソン夫人が滞在しているカンヌに飛んでいきました。

アレキサンドラ皇太后は、デンマークの王女でビクトリア女王の長男エドワード7世の妻。

ビクトリア女王は当時、ヨーロッパで一番美しいと言われていたオーストリアの皇后エリザベートを見て「うちのアリックスの方が美しいわ」と言ったそうです。

こんなジュエリーコレクションが、シンプソン夫人のものになったら大変。

エドワード8世はウィンザー公爵となり、王室の財産から年金2万1千ポンドを受け取ることになりました。

ウィンザー公は亡くなる時、「ウォリスにも年金を支給してほしい」と何度も請願した

ため、エリザベス女王はウォリスにも半額の年金を払い続けました。

 

父の即位

順当にいけば、エドワード8世の子供が皇太子となり、エリザベス王女は王族の一人として、もっと気楽な生活を送ることができたはずでした。

マーガレット王女の二人の子供達は、まさに気楽に自由な生活を送っています。

エドワード8世の退位を聞いて、エリザベス王女の母は泣き出してしまったといいます。

これからは王妃としての重圧に耐えなければならず、家族だけで過ごせる平穏で幸せな生活は終わってしまったのです。

今後は国王一家として、一挙手一投足まで注目され、常に人目にさらされる生活が始まります。

この時エリザベス王女は10歳でした。

妹のマーガレット王女から「お姉様がクイーンになるの?」と聞かれ、「ええ、いつかね」と答えたそうです。

この時からエリザベス王女の小さな肩には、「将来の女王陛下」として生きる

重圧と責任がのしかかってきました。

 

戦時中の一家

第二次大戦中、国王一家はウィンザー城に留りました。

1940年にはロンドン大空襲が始まり、チャーチル首相は王妃と王女達に「カナダに疎開するように」と勧めましたが、王妃は断りました。

もしドイツ軍が上陸したら、王女達を装甲車に乗せてカナダに向かう艦艇に乗せる計画が立案されていたといいます。

エリザベス王女はBBCのラジオに出演して国民を励まし、

「陸海空の勇敢な兵隊さん達のために、できるお手伝いは何でもします。子供であっても危険や悲しみも分かちあわなければなりません」

という立派なスピーチをしています。

エリザベス王女とマーガレット王女

またエリザベス王女は車の整備員として、実際に後方で軍用車両の整備に当たっていました。

タイヤの交換やエンジンの整備が、主な仕事だったそうです。

軍用車を整備中のエリザベス王女。

つなぎを着て一般の整備員達とともに励んでいます。

夕食の席で、軍用トラックのタイヤ交換やエンジン整備について話して、国王夫妻を驚かせたそうです。

 

フィリップ殿下との出会い

フィリップ殿下とエリザベス王女の出会いは、王女が14歳の頃でした。

エリザベス王女は、ハンサムなフィリップ王子に一目ぼれしたと言われています。

若い頃のフィリップ殿下

 

その後、ダートマス海軍兵学校に進学したフィリップが、見学に訪れたエリザベス王女を案内したことから、二人の恋は始まりました。

ただ、この出会いは偶然ではなく、フィリップの叔父であるルイス・マウントバッテンが仕組んだものであったといいます。

ルイス・マウントバッテン卿は、エリザベス王女がハンサムなフィリップを気に入っていることを知り、二人の結婚を画策していました。

 

フィリップ殿下の事情

フィリップはギリシャ国王の孫で、エリザベス王女と同じくヴィクトリア女王の玄孫ですが、革命によって国を追われ財産はありませんでした。

さらに彼の4人の姉たちは、ナチスと手を組んでいたドイツのヘッセン大公家などに嫁いでおり、その事は戦後間もないイギリスでは歓迎されざることでした。

末の姉ソフィーが嫁いだヘッセン・カッセル家のクリストファーは、戦時中「バッキンガム宮殿を爆破してみせる」と言った人物でもありました。

財産が何もないこと、親族のナチスドイツとのつながりなど、フィリップ殿下は将来の女王の結婚相手として、反対される可能性の高い人物でしたが、エリザベス王女は初恋の相手との結婚を押し切りました。

2人の結婚を後押しして急がせたのは、マウントバッテン卿でした。

エリザベス王女はまだ21歳だったので、父親のジョージ6世は慌ただしく結婚を急がせるマウントバッテン卿を苦々しく思っていたようです。

マウントバッテン卿は野心家で、自分の甥がエリザベス女王と共に、英国を共同統治することを望んでおり、フィリップ殿下にもその事を言い含めていたと言われています。

 

2人の結婚

前述の通りフィリップ・マウントバッテンは、ギリシャとデンマークの王子という立派な血筋でしたが、財産はありませんでした。

フィリップが王女にプロポーズした時、王女は父親である国王に相談することなく、その場で「YES」と答えたそうです。

相談や根回しをしていると、反対意見が出ることがわかっていたからかもしれません。

父親のジョージ6世は、ルイス・マウントバッテンがフィリップの後見人を務めていることからも、この結婚に大賛成というわけではありませんでした。

国王はルイス・マウントバッテンの野望を理解していたため、ガーター勲章を授ける際もフィリップが女王より後になるよう配慮しています。

左はチャールズ皇太子、中央がマウントバッテン卿、右はフィリップ殿下

マウントバッテン卿の若い頃。フィリップ殿下に負けないくらいハンサム

 

戦後間もない時期であったため、ドイツに嫁いでいたフィリップの姉達は結婚式に招待されませんでした。

 

即位式

エリザベス王女とフィリップ殿下は、マルタ島で新婚生活を送りました。

そこで王女は初めてカフェや美容院に行き、一般人のような生活を楽しむことができました。

間もなく父親のジョージ6世が亡くなり、エリザベス王女は25歳で即位することとなります。

戴冠式はテレビで中継されましたが、オリーブ油にオレンジ、バラ、シナモン、麝香(じゃこう)、龍涎香(りゅうぜんこう)などが調合された油を、女王の腕や胸元に塗る儀式を映すことだけは、女王が拒否したそうです。

宝珠と王笏(おうしゃく)持ち、英国国教会の大主教から重さ2.7キロもある「聖エドワードの王冠」を被かぶせられました。

体力も必要

戴冠式のドレスは結婚式の時と同じく、ノーマン・ハートネルによるものです。

この「聖エドワードの王冠」には宝石が3174個も取り付けられています。

戴冠式のエリザベス女王25歳

 

プラチナジュビリーの時の女王

 

女王の立場

25歳のエリザベス女王には、王家を治める家長としての立場もありました。

夫のフィリップ殿下の性格は、もともと支配的で亭主関白タイプでした。

その上、彼の背後にはマウントバッテン卿がおり、「女王との共同統治」を狙っていました。

女王が首相と謁見中、横にいたフィリップ殿下が口をはさんだことがあったそうです。

その時、女王は驚く程強い口調で「フィリップ!あなたは黙ってて!」と言ったそうです。

フィリップ殿下は渋々、黙ったそうですが、女王の座についた直後はポジショニング争いが度々起こりました。

黙っていたら、徐々に首相との謁見も共同で行うことになり、玉座に2人が並んで座ることにもなりかねません。

エリザベス女王は戴冠式の直後から、今までは同じ目線で過ごした家族にも、序列をわきまえさせ、家長としてふるまいました。

その後、公務においてフィリップ殿下は常に、一歩下がって王配殿下として女王を補佐する役目をこなし、女王の良き助言者としての立場を守りました。

家長はエリザベス女王ですが、家庭内のことは全てフィリップ殿下に決定権が与えられました。

 

マーガレット王女との関係

エリザベス女王とマーガレット王女は仲の良い姉妹でした。

真面目で慎重な性格のエリザベス女王に対して、マーガレット王女は明るく開放的な性格でした。

父親のジョージ6世は次男だったので、皇太子である兄とは何かと区別され、ないがしろにされてきたと感じていたそうです。

そのせいか、マーガレット王女を「2番手の辛さはよくわかる」と言って甘やかしました。

マーガレット王女は、父の侍従長だったピーター・W・タウンゼント大佐との結婚を望みましたが、大佐には離婚歴があり子供がいたため、周囲の反対を受けていました。

エリザベス女王は内心、「妹にも自分と同じように好きな人と結ばれて欲しい」と思ったようですが、家長として「王家の一員でいるか、結婚かどちらかを選ぶように」と告げました。

王家の一員でなくなれば、王室の庇護と敬称、莫大な年金を失います。

マーガレット王女は王族であることを選び、大佐とは別れました。

これはエリザベス女王が、家長として決断を下した最初の事件でした。

 

フィリップ殿下との関係

フィリップ殿下は元々、支配的な性格で、妻にかしずいたり従ったりするタイプではありませんでした。

女王と自分の立場を理解していた殿下は、本来の性格を押し殺して、長年王配として女王の後ろに従っています。

ただ当時の上流階級の男性の常として、こっそり遊んでいたと言われています。

噂になった女性は大勢いますが、ちゃんと相手を選んでいたようで、全員が殿下との関係を否定しています。

フィリップ殿下の浮気相手は、女優か貴族の人妻など決して口を割らない女性達でした。

アンドリュー王子の妻だったセーラ妃の母親とも、噂になっています。

結構仲良しだった二人

 

女王の対処法

殿下の浮気が度々、噂されるようになっても女王は見事に無視しました。

それが当時の上流階級の妻のあるべき姿であり、夫の浮気に対して嫉妬の感情を露わにするのは女王のやることでがありませんでした。

女王は、フィリップ殿下の浮気相手の名前を教えようとした女官をクビにしています。

その後、その女官は自分の軽率さを恥じて自〇したそうです。


女王の子供達

女王の妹、マーガレット王女は離婚歴のあるタウンゼント大佐との結婚を許されませんでした。

それほどエリザベス女王と英国国教会は、離婚に対して厳しい態度で臨みました。

「王室は英国民の模範でなければならない」という義務感もあったのです。

時代が変わって、女王の子供達は次々に離婚することになりました。

世間の目が以前よりは、離婚に対して鷹揚になったこともありますが、子供達も配偶者もスキャンダルをまき散らしたため「離婚するしかない」状態で女王もお手上げでした。

チャールズ皇太子

チャールズ皇太子には結婚前からカミラ夫人という愛人がいました。

14歳年下で美人のダイアナ・スペンサーとの結婚で、落ち着くかと思われましたが、カミラとの不倫関係は続き、皇太子夫妻は別居します。

チャールズ皇太子のスピーチ中、退屈そうにするダイアナ妃

放送事故レベルの不仲っぷり

 

その後、ダイアナ妃がテレビで皇太子とカミラ夫人の不倫を暴露し、世界中のゴシップ欄を賑わせた後、女王は二人に離婚を勧告しました。

その後チャールズ皇太子とカミラは、再婚しましたが女王は結婚式に出席しませんでした。

そもそもチャールズ皇太子はカミラとの結婚を認められなかったため、条件的に釣り合いのとれた相手であるダイアナと結婚しています。

「皇太子妃の条件」に当てはまる女性にこだわった事が発端で、皇太子夫妻は離婚し、スキャンダルをまき散らした上、やっと本来の相手であるカミラと再婚しました。

女王夫妻が、ウィリアム皇太子とケイト・ミドルトンとの結婚を、あっさり認めたのはダイアナの二の舞だけは避けたい、という思いだったといわれています。

 

アンドリュー王子

アンドリュー王子とセーラ妃も離婚しています。

王子の留守中、セーラ妃が愛人と密会し、足をなめさせている写真が、タブロイド紙に載ってしまいました。

フィリップ殿下を始め王室の秘書官や侍従たちは、セーラ妃の奔放な振る舞いを下品だと嫌っていたそうですが、意外にも女王はそれ程嫌っていなかったようです。

陽気で茶目っ気のあるアンドリュー王子は、女王の一番のお気に入りと言われていましたが、最近スキャンダルを起こし、全ての公務からはずれています。

エプスタイン島で10代の少女と関係をもったと告発されており、王子は莫大な和解金を支払いました。

セーラはヨーク公夫人として、離婚後もエドワード王子や子供達と良好な関係を続けています。

 

アン王女

アン王女は兄弟の中で一番、父親のフィリップ殿下に似ていると言われています。

王女は陸軍大佐マーク・フィリップスと結婚しましたが、双方の浮気が発覚して離婚しました。

離婚の数か月後、アン王女は海軍士官ティモシー・ローレンスと再婚しました。

また、女王の初孫に当たる、アン王女の長男ピーター・フィリップスも離婚しています。

 

エドワード王子

エドワード王子は一般家庭の出身で、広告業界の仕事をしていたソフィー・ジョーンズと結婚しました。

貴族出身のダイアナとセーラが王室になじまなかった事もあり、王子の希望は受け入れられました。

ソフィー妃の賢くて控え目、誠実な人柄は、王室内でも高く評価されました。

2人は女王の4人の子供達の中で唯一、離婚していない夫婦です。

ソフィー妃は、派手に話題をふりまくダイアナやセーラに比べて、ニュースになることは少なかったのですが堅実で誠実、真面目な人柄で女王から「二人目の娘」と呼ばれるほど信頼されていました。

 

マーガレット王女

マーガレット王女はタウンゼント大佐がと破局後、写真家のアンソニー・アームストロング=ジョーンズと結婚しました。

平民の生まれだったジョーンズは、結婚後スノードン伯爵となりましたが、すぐに離婚しました。

彼にはバイセクシャルの噂もあり、派手な交友関係で有名だったようです。

離婚後は意外と仲良く、二人は友人としてつきあっています。

マーガレット王女は離婚後、様々な男性と噂になりますが再婚はしていません。

噂になった男性の中には、ミック・ジャガーやピーター・セラーズがいます。